連載「AIと音楽制作 ―― 負債ではなく、検証された選択」第2回

ヨミモノ

「自分でやる」とは、どういうことか

前回、AIをめぐる負債を三つに分けた。耳や手が鈍る認知負債、なぜ効くか分からないまま借りが膨らむ理解負債、そして良し悪しを自分で決められなくなる判断負債。そして、「AIを使うと負債が積み上がる」という通説を、鵜呑みにしないと宣言した。

その検証に入る前に、もっと手前の問いを片づけておきたい。そもそも私たちは、なぜ自分の手で音を作るのか。AIに任せれば、そこそこ良いものが、速く手に入る。同じゴールに着けるのに、あえて自分で操ることに、どんな意味があるのか。ここがはっきりしないと、「どこを自分でやり、どこをAIに任せるか」という、この連載の中心の議論が、宙に浮く。

結論を先に言う。「自分でやる」は、多くの人が思っているような、能力の問題ではない。少なくとも、それだけではない。この回では、二つの比喩を使って、「自分でやる」を能力の話から引き剥がしていく。マニュアル車と、機械式時計だ。

ひとつめの比喩 ―― マニュアル車

まず、音楽から離れて、車の話をする。

マニュアル車を運転できる人は、オートマ車も運転できる。そして、どちらに乗っても、目的地には着く。渋谷に行きたければ、マニュアルでもオートマでも、渋谷に着く。到達点は、同じだ。では、何が違うのか。違うのは、車を操っている感覚――自分でクラッチを切り、ギアを選び、エンジンの回転と対話している、あの直接的な手応えだ。私はこれを、ダイレクト感と呼びたい。

ここで、音楽に話を戻す。AIに任せて音を作るのは、オートマに乗るようなものだ。自分で操る感覚は薄いが、目的地――聴いて気持ちいい音――には着く。自分でミックスを追い込むのは、マニュアルに乗るようなものだ。手間はかかるが、自分で操っている手応えがある。

ここから、すぐに分かることがある。「AIを使うと良い音が作れなくなる」という心配は、的外れだ。オートマに乗ったからといって、渋谷に着けなくなるわけではない。同じように、AIを使ったからといって、気持ちいい音にたどり着けなくなるわけではない。AIを使うか、自分でやるかは、能力の有無の問題ではなく、同じゴールへの、アプローチの違いにすぎない。前作の言葉を使えば、これは「的外れな恐怖」のほうだ。失われるのは、良い音を作る能力ではない。失われうるのは、ダイレクト感――自分で操っているという、あの手応えのほうだ。

そして大事なのは、ダイレクト感は、いつも必要なわけではない、ということだ。毎日の通勤で、峠を攻めるようなマニュアル操作はいらない。オートマで楽に行けばいい。だが、ワインディングロードを走る喜びそのものが目的なら、マニュアルを握る。音楽も同じだ。さっと形にしたいときは、AIに任せればいい。だが、自分で操ること自体に意味があるときには、手を動かす。ダイレクト感は、味わいたいときに、取りに行けばいい。

マニュアル車の比喩の、穴

と、ここまで書いて、自分でこの比喩に穴があることに気づく。前作から続く癖で、自分の論の弱いところを、自分で突いておきたい。

マニュアル車の比喩は、ひとつ、大事なことを取りこぼしている。それは、目的地が、あらかじめ決まっているという前提だ。渋谷に行く、という目的地は、マニュアルで行こうがオートマで行こうが、変わらない。移動の手段が変わるだけで、行き先は固定されている。

だが、音楽制作は、そうではない。しばしば、目的地そのものが、作っている途中で変わる。手を動かしているうちに、当初思っていたゴールが、別のものに更新されていく。偶然たまたま弾き間違えたフレーズが、曲の方向性そのものを決めることがある。あるプラグインを通した音の質感に引っ張られて、最初に思い描いていた完成像が、まるごと書き換わることがある。手で触るという行為が、耳を変え、耳が変わることで、目指す場所自体が動く。

つまり、制作におけるプロセスは、単に目的地へ運ぶ手段ではない。プロセスそのものが、目的地を変える力を持っている。これは、マニュアル/オートマの比喩には収まらない。車の運転では、いくらクラッチ操作を楽しんでも、それで行き先が渋谷から新宿に変わったりはしないからだ。

だとすれば、AIは単なる「移動手段」ではなく、もうひとつの顔を持つ。AIが出してきた予想外の出力が、こちらの耳を刺激し、当初の目的地を更新することがある。このとき、AIは手段であると同時に、探索の相手になっている。自分一人では思いつかなかった方向へ、AIとのやり取りが連れていく。この「探索の相手としてのAI」という側面は、この先の回で、もう一度詳しく扱う。ここでは、マニュアル車の比喩が万能ではないこと、制作ではプロセスが行き先を変えること、それだけ覚えておいてほしい。

ふたつめの比喩 ―― 機械式時計

もうひとつ、別の比喩を重ねたい。マニュアル車が「同じゴールへの、違うアプローチ」を示すなら、こちらは、もう少し踏み込んだことを示す。機械式時計の話だ。

機械式時計は、正確に時を知るという、本来の機能においては、もう完敗している。クォーツ時計に負け、スマートウォッチには、まるで歯が立たない。秒単位で正確に時刻を知りたいなら、数百円のデジタル時計のほうが、数百万円の機械式時計より優秀だ。これは、動かしようのない事実だ。

では、機械式時計は、その本来の機能を失って、ただの装飾品、ただの芸術になったのか。そうではない。機械式時計は、機能を失ったのではなく、別の機能へと移った。正確に時を知らせる、という機能から、それを持つ人がどういう人間かを示す、という機能へ。あるいは、ある審美眼や価値観を共有する、特定のコミュニティへの帰属を証明する、という機能へ。時計は、機能を手放したのではない。担う機能が、入れ替わったのだ。

これを、AIと音楽に重ねる。AIが、正確で速いデジタル時計だとすれば、人間が手で作る音楽は、機械式時計だ。純粋な機能――一定の質の音を、速く、安く供給する――という点では、人間はAIに敵わなくなっていく。前作で論じた通り、BGMやストック音楽のような機能的な音楽ほど、AIと正面からぶつかる。

だが、ここで機械式時計の教訓が効く。人間が手で作るという行為は、機能を失うのではなく、別の機能を獲得する。「人間が作った」という事実、その来歴そのものが、ある種の聴き手にとって、これは本物だ、という真正性の証明として機能しはじめる。前作で「ラグジュアリー化」と呼んだ現象は、まさにこれだった。人間が作る音楽は、安く速く供給する機能では負けても、本物であることを担保する、という新しい機能体を手に入れる。

この見方は、「人間か、AIか」「機能か、表現か」という、単純な二択を超えさせてくれる。人間が作る行為は、表現の側へ逃げ込んで機能を捨てるのではない。機能の中身が、入れ替わるのだ。

なぜ、あえて自分で操るのか

二つの比喩を並べた。マニュアル車は、自分でやることが能力でなくアプローチの選択であること、そして失われるのはダイレクト感であることを教えた。機械式時計は、人間が作る行為が機能を捨てるのでなく別の機能へ移ることを教えた。

ここで、最初の問いに戻る。AIに任せれば同じゴールに着けるのに、なぜあえて自分で操るのか。

答えは、二つある。ひとつは、ダイレクト感そのものが欲しいとき。マニュアルを握る喜びのように、操る手応えが目的になるとき。もうひとつは、もっと切実だ。細かなこだわりや、繊細な要求に、どうしても応えなければならないとき。AIの出す「そこそこ良い中央値」では届かない、その曲だけの、その一音だけの精度が必要なとき。アートとして、これは自分で決めなければならない、と判断したとき。

この「しなければならない」は、自己満足とは違う。聴いて気持ちいい、という同じゴールでも、その「気持ちいい」の解像度を極限まで上げようとすると、AIの粗さが足かせになる瞬間が来る。そのとき、手を動かすしかなくなる。ダイレクト感は、そこで、味わいではなく、必要として立ち現れる。

では、その「しなければならない」と判断する基準は、何なのか。どういうときに人は、AIに任せず、自分で操ると決めるのか。そこにこそ、この連載の核心がある。次回は、私自身の実際の使い分け――仕事では使わず、趣味では使う、という線引き――を解剖して、その基準を、五つの軸として取り出してみたい。それは「気分」ではなく、「条件」の問題だ。

結び ―― 揺らぎはじめる、負債という枠組み

今回は、「自分でやる」を、能力の問題から引き剥がした。マニュアル車の比喩で、それがアプローチの選択であり、失われるのはダイレクト感だと示した。機械式時計の比喩で、人間が作る行為が機能を捨てるのでなく、真正性という別の機能へ移ると示した。

ここで、前回立てた「負債」という枠組みが、早くも少し揺らぎはじめる。もし「自分でやる」が能力でなくアプローチの選択なら、AIに任せて失われるのは、能力そのものではなく、ダイレクト感という味わいかもしれない。だとすれば、それは本当に「負債」なのか。返さなければならない借りなのか、それとも、ただ今回は味わわなかっただけなのか。この問いは、まだ宙に浮かせておく。次の三回をかけて、少しずつ着地させていく。

(第3回へ続く)

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