第8回(最終回) 中世への回帰、ただし螺旋 ―― アニミズム的転回と、人間中心への問い直し

ヨミモノ

連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」最終回


最後の鏡を、手に取る

長い連載も、最終回になった。ここまで、写真・活版印刷・産業革命・そして日本の文化圏という、複数の鏡を覗いてきた。最後に手に取るのは、もっとも時間を遡る鏡――中世から近代にかけての、作曲家の経済的な立ち位置だ。

そして、この回では、二つの大きな仕事をする。ひとつは、AIによって人間の作曲が向かう先が、実は中世のパトロネージュへの「回帰」に見える、という話。ただし、それが完全な円ではなく「螺旋」であることを論じる。もうひとつは――この連載がずっと支柱にしてきた「判断する人間が中心に残る」という結論そのものを、最後に、自分で揺さぶることだ。アニミズムという、日本文化の古層にまで降りて。


経済の円環 ―― パトロネージュへの回帰

第5回で、私は「人間の作曲はラグジュアリー化し、少数のパトロンに支えられる領域へ縮む」と書いた。この見立てを、歴史の中に置いてみると、ある既視感に行き着く。それは、近代以前の芸術家の姿だ。

バッハは、教会と宮廷に雇われ、典礼用の音楽を職務として供給する立場だった。ハイドンに至っては、エステルハージ侯爵家の従僕である。制服を着て、主人の求めに応じて曲を書く、被雇用者だった。つまり、音楽は、注文に応じて作られる「機能」であり、作曲家は、独立した芸術家というより、宮廷や教会という後援者に従属した、職人だったのだ。

絵画も、まったく同じだった。ルネサンスの画家は、工房を構える職人で、教会や有力家門――メディチが典型だ――の発注で制作した。契約書には、画材の質や、金箔の使用量まで指定されることもあった。何を描くかは、依頼主が決めた。レオナルドも、ミケランジェロも、後援者なしには成立しなかった。芸術家が「自分の表現を、自由に追う、独立した個人」になるのは、ずっと後の話なのである。

その「後」を作ったのが、市場だった。18世紀から19世紀にかけて、パトロネージュの仕組みが崩れ、芸術家は、匿名の「市場」へと放り出される。ベートーヴェンは、特定の主人を持たず、出版・演奏会・複数の支援者を組み合わせて、自立を図った、最初期の世代だった。これが、「独立した芸術家」という、近代的な像の始まりだ。そして、ここが重要なのだが――ロマン主義の天才神話も、自己表現としての芸術という観念も、この市場化と、セットで生まれた、比較的新しい発明だったのだ。第7回で、AIへの危機感はこの「個人の唯一性」という前提に依存している、と書いた。その前提自体が、たかだか200年ほどの歴史しか持たない、ということになる。

そして、AIである。機能音楽の市場が崩れることで、人間の作曲は、再び、パトロン的な少数の支え手に依存する領域へと、縮んでいく。前近代=パトロン依存の職人。近代=市場に立つ、独立した作家。そして、AI時代=再びパトロン的な支えへ。きれいな円環に見える。


円ではなく、螺旋 ―― ねじれたまま重なる

だが、これを「回帰」と呼ぶとき、二つの留保を置かなければならない。そして、この二つの留保こそ、円環を螺旋に変えるものだ。

ひとつめ。戻る先が、同じではない。 中世のパトロンは、教会や王侯という、少数の権力だった。芸術家は、地理的にも、その権力に縛られていた。だが、いまのパトロンは違う。クラウドファンディング、サブスクリプション、少数の熱心なファン、ブランドとのタイアップ――分散していて、匿名的にもなりうる。形は前近代に似ていても、中身は「多数の小口の後援者」という、むしろ新しいものだ。これは、ベートーヴェン的な「市場による自立」の、分散した進化形とも読める。だから、これは完全な円ではない。同じ位置に戻ってきたように見えて、一段、上(あるいは横)にずれている。螺旋なのだ。

ふたつめ。近代が作った「自己表現としての芸術」という観念は、消えない。 前近代の職人は、自己表現を、主たる目的にはしていなかった。だが、いまの作曲家は、その観念を、すでに深く内面化したうえで、パトロン依存へと戻っていく。だから、経済構造は中世に似ても、作家の自己認識は、近代以降のままなのだ。この二つが、ねじれたまま、重なる。注文仕事をこなしながら、同時に作家性を主張する――前近代には存在しなかった、この緊張を、これからの作り手は抱えることになる。

実は、絵画の世界は、音楽より一足先に、この螺旋を実演している。現代アートの一次市場は、コレクター、ギャラリー、財団という、事実上のパトロン構造に、とっくに回帰している。だが、そこでも作家は、「自己表現する、独立した個人」という、近代の衣をまとったままだ。パトロン構造への回帰と、近代的な作家像の併存。そのねじれの先行例を、現代アートは、すでに見せてくれている。


いちばん固い線が、揺らぐ ―― マルチモーダルという問い

だが、この螺旋の整理だけで、連載を閉じるわけにはいかない。経済の構造には、ひとまず見通しがついた。だが、その手前に、私がずっと、口に出さないまま寄りかかってきた前提が、ひとつ残っている。人間の判断は、なぜAIに明け渡せないのか。その最も強い答えを、私はどこかで、ある質的な差に求めたくなっていた。材料は、連載のあちこちに転がっている。第3回で「身体性・一回性」と呼んだもの。第4回で触れた、AIは音そのものを複製せず、統計的な構造を抽出するだけだ、という事実。これらを束ねれば、一本の都合のいい線が引ける。人間の学習は、悲しみや、指が届かないという身体の抵抗といった、音以外の文脈ごと、表現を吸収する。一方、AIが抽出するのは、音響的な分布だけだ――と。種類の差であって、量の差ではない。だからこそ、時間が経っても揺るがない。そう言いたくなる。だが、ここで一度、立ち止まっておきたい。第4回でこの「統計的な構造の抽出」を持ち出したとき、私はそれを、逆向きに使っていた。AIの学習は、人間の学習と地続きだ――両者を近づけるために、使ったのだ。その同じ事実を、今度は、両者を引き離す線として、持ち出そうとしている。都合に応じて、逆向きに。この危うさには、すぐ戻ってくることになる。

そもそも、この線は、本当に固いのか。よく見ると、ひとつのことを、こっそり前提にしている。AIは、音しか見ない、という前提だ。そして、いま技術が進んでいる方向は、その前提を裏切る側にある。マルチモーダルな学習は、音を、音だけでは学ばない。音響データを、テキストに、作曲家の生い立ちに、当時の歴史的背景に、そして「悲しい」という言葉そのものに、結びつけて学ぶ。いまの生成モデルの進化を見ていれば、これは絵空事ではなく、すぐそこの未来だ。AIが「悲しい」というテキストと、マイナーコードの響きを、リンクさせて出せるようになったとき。指が届かないという身体の記述を、その音のもつれと結びつけてしまったとき。私はまだ、AIは音響的な分布しか抽出していない、と言い続けられるだろうか。人間の専有地だと思っていた非音響的な文脈は、表象というかたちで、AIにとっての、もうひとつの最適化対象に変わりつつある。

つまり、私がいちばん固いと思っていた線は、ひとつの真理ではなく、ひとつの技術的な状態の上に立っていたにすぎない。今日は持ちこたえる。だが、数年後には、持ちこたえないかもしれない。そして、これは、最初に見えるより、ずっと落ち着かない事実だ。もし「判断する人間が中心に残る」という私の結論が、次の学習一回で溶けてしまう程度のものなら、それははじめから、深い理由ではなかったことになる。原理のふりをした、その都度の事実。私は、技術が動けば一緒に動いてしまう場所を、結論の支柱にしていたのかもしれない。だとすれば、もっと底の、技術が動いても動かない場所まで、降りていくしかない。

降りていく途中で、まだ動かなそうな区別が、ひとつ、手に触れる。たとえAIが「悲しい」というテキストを取り込んでも、AIは、悲しみを、被ってはいない。AIの文脈は、記述された、三人称のものだ。人間の文脈は、生きられた、一人称のものだ。表象された文脈と、生きられた文脈。この区別なら、モダリティがいくら増えても、溶けないのではないか。――そう言いかけて、私は、自分の手つきに気づく。私はさっきから、線が破られるたびに、もう一本、さらに内側へ、新しい線を引き直している。人間だけが、文脈を本当に「生きて」いる。そう言い張ること自体が、人間を、経験の特権的な座に置きつづけたいだけなのではないか。技術の話だと思って降りてきたはずが、私は、もっと古くて、もっと厄介な前提の、すぐ手前に立っていた。


最も深い鏡 ―― アニミズムという古層

さて、ここからが、この連載の、いちばん底だ。

これまで覗いてきた西洋の鏡――写真、活版印刷、産業革命――は、どれも、ある共通の構えの上に立っていた。それは、「人間が、道具を、どう使うか」という構えだ。人間という主体がいて、道具という客体がいる。両者は、はっきりと分かれている。その前提のうえで、道具をどう使いこなすか、を論じてきた。

だが、この「人間と道具を分ける」という構え自体が、実は、ひとつの文化的な前提にすぎないのではないか。私は、そう考えはじめている。

西洋の創作観の根底には、おそらく、人間という創造主体と、それ以外の道具や自然とを、峻別する構えがある。これは、人間が神に似せて作られ、世界を管理する特権的な存在だ、という世界観と、無縁ではないだろう。創造は、人間の専権事項だ。だからこそ、AIが創造に関与することは、人間だけが持つはずの聖域への、侵犯として、強い忌避を呼ぶ。

一方、アニミズム的な世界観では、人間と、人間以外のものとの境界が、そもそも、それほど厳格ではない。道具にも、自然物にも、ある種の魂や、働きが、宿りうる。ものを作るという行為も、人間が一方的に世界へ押しつけるのではなく、素材や道具との「応答」のなかで、立ち上がるものとして捉えられる。だとすれば、AIという、新たな「働きを持つもの」が、創作に加わることへの抵抗も、構造的に小さい。人間と機械のあいだに、絶対的な断絶を引かない構えが、無意識の前提として、あるのかもしれない。

具体的な接続点も、引ける。日本には、古くから、道具が長い年月を経て魂を持つ、という付喪神(つくもがみ)の発想がある。人形供養があり、楽器を弔う文化がある。ものに魂が宿り、人間とものとのあいだに、応答の関係がある、という感覚だ。初音ミクが、単なるソフトウェアを超えて、人格を持つ存在として愛されたことは、この付喪神的な感性――人工物に、魂を見出す構え――と、無縁ではないのかもしれない。中の人がいない声に、受け手のほうが、魂を吹き込んだのだ。


ここで、三度、強くブレーキを踏む

このアニミズムの話は、この連載で、いちばん豊かで、同時に、いちばん危ない。だから、ここでも――いや、ここでこそ、強くブレーキを踏む。三つの留保を、置く。

ひとつめ。これは、日本人論の、典型的な罠の、すぐ隣にある。 「日本人は、特別な感性を持っている」という語りは、心地よいがゆえに、検証を欠いた本質主義へと、たやすく滑り落ちる。「日本人だから、機械に魂を見出せる」という一般化は、実証的な根拠が薄いまま、ロマンとして流通してきた、長い歴史がある。だから、私は、これを断定としてではなく、あくまで仮説として置く。アニミズム的な感性が「ある」と証明したいのではない。こうした受容のしやすさを説明する、ひとつの可能な補助線として、アニミズム的な思想の影響を、考えてみたい――その程度の、慎重な構えを、最後まで保ちたい。

ふたつめ。アニミズムを、日本の独占物にしてはならない。 自然や、ものに魂を見る感性は、世界中の、数多くの土着的な信仰に、広く見られるものだ。日本に固有のものでは、まったくない。そして、現代の日本人の多くが、宗教的なアニミズムを、意識的に信仰しているわけでも、ない。だから、私の主張は、「日本人はアニミストだ」ではない。「西洋近代が前提としてきた、人間と非人間の峻別が、日本では、文化の古層において、相対的に緩く、それが無意識の構えとして、残響しているかもしれない」――この、慎重に限定したかたちだ。日本の特権を語るのではない。むしろ、西洋近代の特殊性のほうを、相対化するための視点として、使っている。

みっつめ。これが、連載全体の誠実さに関わる、いちばん大事な留保だ。思想の古層の話と、いま起きている利害の話は、別の層である。 もし、このアニミズムの話が、「だから、日本人はAIに寛容で、それが正しいのだ」という、優越の語りになった瞬間、この連載が、第1回から守ってきた誠実さは、根こそぎ崩れる。アニミズム的な感性は、受容のしやすさを、説明するかもしれない。だが、それは、第4回で論じた権利者の正当な反発や、第6回で論じた商業の論理を、無効化するものでは、断じてない。思想史としての主張と、産業の現実は、最後まで、分けて論じなければならない。


結論を、自分で、ひっくり返す

そして、最後に。私は、この連載がずっと支柱にしてきた結論そのものを、自分で、揺さぶらなければならない。

思い出してほしい。私は、この連載を通じて、繰り返し「判断する人間が、中心に残る」と論じてきた。サンプリングのDigも、AIへの指示も、プロデューサーの方向づけも、ミックスの最終判断も、すべて、人間という判断主体に収束する、と。それは、いまでも、間違っていないと思う。

だが、最後のアニミズムの鏡は、私に、こう問いかけてくる。これまでの西洋の鏡――写真、活版印刷、産業革命――は、どれも、「人間が道具をどう使うか」という、人間と道具を分けた前提の上に立っていた。だとすれば、私がずっと支柱にしてきた「判断する人間が、中心に残る」という結論そのものも、実は、その西洋的な「人間中心」の構えを、引きずっていただけではないのか。

人間と機械が、応答し合うなかで、何かが立ち上がる――アニミズム的な見方を、もし本気で突き詰めるなら、その「立ち上がってくる何か」の中心に、人間だけがいる、とは、言い切れなくなる。私が「判断する人間が中心だ」と言い続けたとき、私は、無意識のうちに、人間と機械を分け、人間を特権的な場所に置いていたのかもしれない。

私は、この問いに、きれいな答えを出すつもりはない。出せない、というのが正直なところだ。だが、この連載を、「判断する人間が中心だから、大丈夫だ」という、安心の物語で閉じたくはなかった。むしろ、その安心そのものを、最後に、いったん手放してみたかった。人間が中心なのか、それとも、人間と機械の応答のなかに、中心などないのか――この問いを、開いたまま、残しておきたい。


結び ―― では、作り手は、何をするのか

長い連載を、閉じる。

最後に、これまで覗いてきた鏡を、並べてみる。写真は、「機能と表現の分離」を映した。活版印刷は、「複製コストの暴落が、制度を後から生む」ことを映した。産業革命は、「あえて手を選ぶことに、価値が宿る」ことを映した。中世のパトロネージュは、「経済が、螺旋を描いて回帰する」ことを映した。そして、これらの鏡は、最終的に、ほとんど同じ一点を指していた。価値は、希少性から、判断へと移る。そして、その判断は、人間に残る――少なくとも、いまのところは。複数の、まったく異なる鏡が、同じ一点を指すという事実は、その一点が、かなり頑健であることの、傍証だと思う。

そして、その「判断」とは何だったか。それは、第1回で書いた、不確定性・非論理性・嗜好の領域に、必ず要るもの。第3回で書いた、頭の中で、なんとなく鳴っている、欲しい音の像。なぜ、そこで崩すのか、という問いに答えられる、ただひとりの主体。AIは、それらしい中央値を、無限に供給できる。だが、その無限の中から、何を欲し、何を選び、どのよれを生かすかという判断は、いまのところ、人間の中にしかない物差しが、下している。

だから、作り手が、これからすべきことは、たぶん、こうだ。AIを、敵として拒むのでも、AIに、丸投げするのでもない。AIを道具として使いこなし、どこに、自分の判断を入れるかを、握る。「手か、機械か」ではなく、「どこに、手を入れるか」。私自身、レコードを掘り、Spliceを漁り、Sunoに指示を投げながら、その問いを、これからも、手放さずにいたいと思う。

ただし――最後の最後に置いた、あの問いも、一緒に抱えていく。「判断する人間が中心だ」という、その安心の構えそのものが、いつか、古い前提になる日が、来るのかもしれない。人間と機械の応答のなかで、中心が、ほどけていく日が。その日が来たとき、私は、また、新しい鏡を探すのだろう。それまでは、欲しい音の像を、自分の中に持ちつづけること。掘る対象が、レコードから、潜在空間へと変わっても、掘っているのが、まぎれもなく、この自分であること。そこに、留まりたいと思う。

(連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」 了)

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