連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」第6回

視点を、組織の構造に移す
前回までで、価値が「判断」へ移っていく、という見立てを繰り返し述べてきた。今回は、その「判断」を、いったい誰が、どこで下しているのか、という問いに踏み込む。鍵は、音楽制作がもともと分業で成り立っている、という当たり前の事実だ。
作曲、編曲、演奏、レコーディング、ミックス、マスタリング、そして全体に方向を与えるプロデューサー。ひとつの曲は、これだけの役割の分業によって作られている。AIは、この分業のどこを侵食し、人間はどこへシフトするのか。そして後半では、この連載でいちばん自分にとって耳の痛い問い――聴き手は、そもそも作り手の判断など気にしているのか――に、自分で向き合う。
危機感は、分業のどこに集中しているか
まず、冷静に観察したい。いまAIに強い危機感を抱いている層は、音楽制作の分業の中でも、ある特定の位置に偏っているように見える。
それは、「与えられた発注に応えて、手を動かす作業者」としての作曲家だ。劇伴で、指定された尺と雰囲気に合わせて曲を書く。ゲームのループBGMを、仕様に沿って量産する。レファレンスとして渡された曲に似せて、仕上げる。こうした受注仕事は、技術も労力も要する、れっきとしたプロの仕事だ。だが、その本質は「明確な指示に対して、それらしいアウトプットを返す」ことにある。
そして、まさにここが、AIが最も得意とする領域なのだ。第1回から繰り返してきたとおり、AIは「指示に対する内挿」――与えられた方向の、それらしい中央値を返すこと――に長けている。だから、発注に応える作業者としての作曲家の仕事は、AIと正面からぶつかる。この層が強い危機感を抱くのは、まったく当然のことで、的外れでもない。前回までの言葉で言えば、これは「正当な不安」だ。
プロデューサーがやっているのは、「判断」だ
では、人間はどこへシフトするのか。私は、その答えは「プロデューサー的な位置」だと考えている。ここでいうプロデューサーとは、必ずしも職業上の肩書きのことではない。音楽制作のどこかで、何を良しとし、何を退け、どの方向へ進めるかを決める人間、つまり判断を設計する主体のことだ。
プロデューサーが日々やっていることを、よく見てほしい。何を作るべきか。どの方向が良いか。この上がりはOKか、却下か。鳴ってほしい全体像を頭の中に持ち、出てきたものを聴いて判定し、進むべき方向を示す。これは――まさに、この連載がずっと「判断」と呼んできたものそのものだ。
ここまで散らばっていた話が、ようやく同じ場所を指し始める。第3回で論じた、サンプリングのDiggerが審美眼で一枚を選ぶこと。AIに指示を出し、出力を聴いて、再生成を繰り返すこと。そして、プロデューサーが分業全体を束ね、方向を与えること。これらは、見た目はまるで違うが、内実はすべて同じ「判断主体」の働きなのだ。媒体が変わっても、役割が変わっても、判断を下す人間が、中心に残っている。

だとすれば、「作業者から、プロデューサーへ」というシフトは、連載の最初に私が立てた直観――「全部が淘汰されるのではなく、一部が淘汰されて新しい形になるだけだ」――の、いちばん具体的な着地点だということになる。淘汰されるのは、指示に応える作業のほうだ。そして、新しい形とは、判断を下す側への移行のことなのだ。
ミックス・マスタリングという、最前線
この「判断は人間に残る」という主張を、もっとも具体的に検証できるのが、ミックスとマスタリングの現場だ。なぜなら、ここはAIが、すでに人間より速くなりつつある領域だからだ。
いまのAIマスタリングは、「いい音」とされるレファレンスへ、最速で連れて行ってくれる。適切なラウドネス、整った帯域バランス、定位の処理。いわゆる「正解」の音像へ到達することにかけては、もはや人間の手作業より速い領域に入りつつある。これは、認めなければならない事実だ。
だが、ここで立ち止まって考えたい。レファレンス通りの「正解」を出すことと、「この曲にとって、何が正解なのか」を決めることは、まったく別の行為だ。前者は、内挿である。すでにある正解へ、効率よく近づく作業。後者は、判断である。どのレファレンスを選ぶのか。この曲は、あえて「正解」から外すべきではないか。低域を、定石より削るべきか、それとも残すべきか。こうした問いは、「正解そのものを定義し直す」行為であり、ここにこそ、人間の判断が残る。第3回の言葉を借りれば、これは「完璧を選べる者が、あえて手放す不完全」と、まったく同じ構造だ。AIが完璧側を埋め尽くすほど、「何を完璧とするか」を決める判断の価値は、むしろ上がっていく。
つまり、最終的な判断と、それに伴う最後の一手は、人間の作業者から手離れすることはない。私はそう考えている。ただし――この「手離れしない」が、どういう種類の理由で手離れしないのかは、後で慎重に問い直す必要がある。それは、この回の最後に回したい。
自分の論に、都合の悪い問いを ―― 聴き手のこと
さて、ここからが、この連載でいちばん自分にとって耳の痛い話だ。私はこれまで、作り手の判断こそが価値だ、と力説してきた。だが、ここでひとつ、自分に問わなければならないことがある。聴き手は、そもそも、作り手の判断など気にしているのか。
正直に言おう。商業音楽に話を絞るなら、作り手が聴き手のリテラシーを云々するのは、傲慢だと私は思う。私たちは、自分のこだわりや苦労を、実際に感じている。だが、それを聴き手に「分かれ」と要求するのは、対価を払う側に、こちらの労働量を評価しろと迫るようなものだ。市場では、買い手が良いと思ったものが、良い。作り手の自己満足や、制作プロセスの尊さは、本来、価格にも評価にも関係がない。そして――何を使って作ったかは、大多数の聴き手にとって、どうでもいいことだ。これが、商業音楽の現実だと思う。アーティストとしての強い意志を脇に置き、経済活動としての音楽という軸で語るなら、聴き手の評価は、粛々と受け入れるべきものなのだ。

この認識は、実は、私自身のこれまでの主張に、鋭く刺さってくる。前回まで、私は「来歴に価値が乗る」「人間が作ったという事実が買われる」と書いてきた。だが、いま述べたことが正しいなら、それは聴き手の大多数には効かない。来歴に価値が乗るのは、聴き手がそれを気にする、一部の市場に限られる。来歴プレミアムは、普遍的な救済などではなく、特定のニッチでだけ働くものなのだ。
ここで、見方を整理し直したい。来歴に価値が乗るかどうかは、聴き手のリテラシーの高低の問題ではなかった。その音楽が、どちらの軸に属するか――純粋に消費される経済活動としての音楽なのか、強い意志に支えられた音楽なのか――という、市場の性質の違いの問題だったのだ。この整理は、自分の議論を「聴き手は分かっていない」という上から目線の枠組みから救い出してくれる。聴き手は、リテラシーが低いのではない。その音楽を、消費される機能として受け取っているだけだ。傲慢さを手放すことが、議論をより正確にしてくれる。
いくつかの留保 ―― 椅子の数、手離れの理由、聴取の文脈
今回も、自分の論の弱いところを、いくつか置いておく。今回は、特に大事なものが多い。
ひとつめ。「プロデューサーへのシフト」は、希望であると同時に、椅子の数が減る移行でもある。作業者が10人いた現場で、判断者が1人いれば回るのなら、残りの9人は、どこへ行くのか。全員がプロデューサーになれるわけではないし、判断という仕事は、本質的に少人数しか必要としない。前回のラグジュアリー化の話と、これは地続きだ。シフトを希望として語りながら、誰もが上の椅子に座れるわけではない、という現実を、併記しておかなければ、誠実ではない。
ふたつめ。先ほど保留にした、「最終判断はなぜ手離れしないのか」という問いだ。マスタリングAIは、すでに「このジャンルならこう」という判断の一部を、担いはじめている。だとすれば、最終判断が人間に残るのは、判断が技術的に難しいからではない。誰の判断として、その作品が世に出るのか――責任と作家性の帰属の問題だからだ。技術が追いついても、「これは私の作品だ」と引き受ける主体は、人間でしかありえない。この線引きは、技術の限界ではなく、責任の所在に根ざしている。だから、技術が進んでも揺らぎにくい。これは、第3回で論じた身体性・一回性とも、後の回で扱う「来歴」とも、同じ根に繋がっている。
みっつめ。「聴き手にとって、どうでもいい」というのは、大多数については正しいが、ゼロにはならない。そして重要なのは、それが聴き手の「属性」ではなく、聴取の「文脈」に依存する、ということだ。同じ曲でも、店内BGMや作業用として純粋に消費される文脈と、ライブやファンダムで、作り手に興味を持って聴かれる文脈がある。同じ音源が、両方の市場に、同時に存在しうる。Spotifyで流し聞きされる、まさにその同じ曲が、ライブでは来歴ごと受容される。だから、聴き手の「どうでもよさ」は、聴き手という人間の属性ではなく、その音楽が置かれた聴取の文脈に依存している。
そして、最後にひとつ。「来歴はどうでもいい」と「判断主体は人間に残る」は、矛盾しない。両立する。なぜなら、聴き手が「何で作ったか」を気にしなくても、聴き手に評価されるものを当てにいく判断は、誰かが下さなければならないからだ。AIが垂れ流す中央値の出力を、そのまま市場に出しても、売れるとは限らない。何が当たるかを判断し、方向づける者は、商業の軸でこそ、必要とされる。聴き手にとってどうでもいいのは、あくまで「制作プロセス」であって、「判断の質」は、結果物を通じて、ちゃんと市場に効いているのだ。
結び ―― そして、もうひとつの文化圏へ
今回は、視点を制作現場の分業構造に移し、「作業者から、プロデューサーへ」という、判断する側へのシフトを論じた。ミックス・マスタリングの最終判断は、責任と作家性の帰属ゆえに、人間から手離れしない。一方で、商業音楽において、聴き手の大多数は制作プロセスを気にしない――その事実を、傲慢にならずに受け入れたうえで、それでも判断の質は市場に効いている、と整理した。椅子の数が減るという現実も、忘れずに併記した。
ここまで、私はずっと、西洋から生まれた鏡――写真、活版印刷、産業革命――を使い、西洋的な「作者」や「作品」の観念を、暗黙の前提にしてきた。だが、次回はその前提そのものを、揺さぶる。日本のボカロ、東方、同人。これらの文化は、機械が歌うこと、既存からの派生、そして「単一の正解がないこと」を、AIが登場するはるか前から、当たり前のものとして社会に実装してきたのではないか。西洋がAIで初めて直面している動揺を、日本のある文化圏は、とっくに通過していたのではないか――。連載でいちばん、私にしか書けないと思っている話に、次回、入っていく。
(第7回へ続く)



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