連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」第5回

なぜ、写真では足りないのか
これまで、写真という鏡を何度も使ってきた。「機能と表現の分離」を映すには、写真は優れた鏡だった。だが、何度も但し書きを付けてきたとおり、写真には映せないものがある。無限の供給、という問題だ。
写真は、複製に物理的な上限があった。だがAIによる音楽生成には、その上限がない。ボタンを押すたび、限界費用ほぼゼロで、新しい曲がいくらでも湧き出してくる。この「無限に湧く」という性質を正確に捉えるには、写真よりも、もうひとつ別の鏡のほうがふさわしい。産業革命と、それが滅ぼしかけた手仕事である。今回はこの鏡を、正面から覗き込む。
機械が、手工業を駆逐したとき
産業革命は、それまで手仕事で作られていた品々を、機械による大量生産で置き換えた。安価で、均質で、大量の工業製品が市場を埋め尽くす。職人が一つひとつ手で仕上げていた布も、家具も、日用品も、機械の前では価格でまったく太刀打ちできなくなった。手仕事は、一度、ほとんど滅びかけたのだ。
このとき立ち上がったカウンターが、19世紀後半のアーツ・アンド・クラフツ運動だった。ウィリアム・モリスらは、機械生産の均質さに抗い、「機械が作れるもの」ではなく「人間の手と時間が宿るもの」にこそ価値がある、と訴えた。手仕事の復権運動である。
この構図は、いま音楽の現場で起きていることと、ほとんど重なる。AIという機械が、機能音楽を安価に大量生産しはじめる。それに対して、人間の手による音楽の価値を問い直そうとする声が上がる。歴史は、不気味なほど似た形を、また描こうとしている。だが、写真ではなく、この産業革命という鏡を選ぶことには、二つの明確な理由がある。
写真より優れている点① ―― 限界費用ゼロ
ひとつめの理由は、この鏡が「限界費用ゼロ」を正面から扱えることだ。
写真は、一枚プリントするたびに、印画紙と、暗室の手間と、時間がかかった。複製には、つねにコストの下限があった。だからこそ、写真にも「オリジナルプリント」という希少性が成り立ちえた。ところが、工業製品は違う。いったん型さえ作ってしまえば、あとは限りなく低いコストで、無限に複製できる。
AIによる音楽生成は、写真よりも、この工業製品にずっと近い。学習というかたちで「型」ができてしまえば、あとは限界費用ほぼゼロで、無限に音楽が湧く。だから、供給過剰によって単価が崩壊し、価値が「希少性」から引き剝がされていく、という力学は、写真史よりも、工業史のほうがはるかに直接的に当てはまる。機能音楽が、値段のつかない方向へと押し流されていくのは、かつて手工業の品が、安価な量産品によってコモディティ化していったのと、同じ現象なのだ。

ここで思い出してほしいのは、連載の最初から繰り返してきた仮説だ。価値は、消えてなくなるのではない。希少性から引き剝がされて、別の場所へ移る。では、どこへ移るのか。物語へ、来歴へ、人間関係へ――そして、作り手の判断へ。供給が無限になればなるほど、「何が良いか」を選び、方向づける判断の希少性が、相対的に際立ってくる。この点は、次回さらに掘り下げる。
写真より優れている点② ―― 手仕事の「再定義」
ふたつめの理由は、もっと本質的だ。この鏡は、「手仕事」という言葉の意味が、ある時点で決定的に変わったことを教えてくれる。
考えてみてほしい。産業革命より前、手仕事は、ただの当たり前だった。手で作る以外に方法がなかったから、すべてが手仕事だったにすぎない。そこに、特別な価値があったわけではない。ところが、機械という選択肢が現れた後では、状況が一変する。機械で安く作れるのに、あえて手を選ぶ――その「あえて」に、価値が宿るようになったのだ。
同じ「手で作る」という行為が、機械の登場前と後では、まったく意味が違う。前者は、選択の余地のない必然。後者は、機械という代替案を退けたうえでの、意志ある選択だ。手織りの布が高価なのは、機械織りより精度が高いからではない。多くの場合、精度では機械に劣る。それでも高いのは、「人間がその布に時間を費やした」という事実そのものが、買われているからだ。

この「あえて選ぶことで意味が乗る」という構造は、第3回で論じた話と、まったく同じものだ。あのとき私は、価値が上がるのは「不正確性」そのものではなく、「完璧を選べる者が、あえて手放した不完全」だと書いた。手織りの価値も、同じ理屈の上にある。機械で完璧に作れる世界で、あえて人間の手を選ぶ。AIで完璧な中央値を出せる世界で、あえて人間の判断を通す。鏡は違っても、映っている一点は同じだ。あえて、という選択にこそ、価値が宿る。
あまり愉快ではない未来 ―― 「ラグジュアリー化」
だが、この鏡は、希望だけを映しているわけではない。むしろ、ここからが、この回でいちばん書きにくい話だ。
アーツ・アンド・クラフツ運動の、その後を見てほしい。手仕事の価値は、確かに本物だった。だが、運動が生んだ品々は、結局のところ、高価で手の届かないものになっていった。量産品と価格で勝負できるはずもなく、手仕事は、富裕層のための贅沢品として、市場のごく一部に生き残るにとどまったのだ。手仕事は滅びはしなかった。だが、かつてのように、社会の広い裾野を支える営みではなくなった。
音楽で、これと同じことが起きたら、どうなるか。人間の作曲は、「ラグジュアリー化」する。ただし、ここでいうラグジュアリー化とは、単に高額な商品になる、という意味ではない。むしろ、人間が作ったということ、誰が作ったのか、どのような関係のなかで作られたのか、という文脈のほうに、価値が移っていくという意味だ。少数のパトロンや、来歴に進んで金を払える層に支えられる、特別な領域へと縮んでいく。それは、尊い領域ではある。だが、職業としての裾野は、確実に痩せる。これは、第1回で私が書いた、あの留保が、いちばん鋭く突き刺さってくる場面だ。「新しい形になるだけ」という私の楽観は、マクロには正しいかもしれない。だが、ミクロでは、ひとりひとりのキャリアが現実に壊れる。手仕事が贅沢品へと縮んだ過程で、職を失った無数の職人がいたように、だ。私は、この未来から目を逸らしたくない。価値が判断へ移ると言うとき、その判断で食べていける人数は、いまよりずっと少ないかもしれないのだ。
見落とされがちな「第三の道」
しかし、手仕事か、量産か、という二分法には、実は大きな見落としがある。そして、その見落としこそ、この連載がいちばん希望を託している場所だ。
産業革命後の工芸史で、本当に生き残ったのは、純粋な手仕事でもなければ、純粋な量産でもなかった。機械を道具として使いこなした職人たちだ。ミシンを使う仕立て屋。電動ろくろを回す陶芸家。彼らは、機械を敵として拒んだのでも、機械に飲まれて没個性化したのでもない。機械を、自分の判断のもとで使う道具にした。どこを機械に任せ、どこに自分の手と判断を入れるか――その線引きを自分で握ることで、生き延びたのだ。
これを、いまの音楽に引き写せば、答えは明らかだろう。AIを敵として拒む層でも、AIに丸投げして中央値を垂れ流す層でもなく、AIを道具として使いこなし、どこに自分の判断を入れるかを握る層。DTMの現場で、AIをスケッチに、音色生成に、編曲の叩き台に使いながら、最終的な判断は手放さない作り手。数のうえで本流になるのは、おそらくこの第三の道だ。手か機械か、という問いの立て方そのものが、間違っているのである。問うべきは、どこに手を入れるか、だ。

結び ―― 誰が、判断するのか
今回は、産業革命という鏡を使って、二つのことを確認した。ひとつは、限界費用ゼロのもとで、機能音楽の単価は崩壊し、価値は希少性から判断へ移っていくということ。もうひとつは、あえて人間を選ぶことに価値が宿る一方で、その領域はラグジュアリー化して裾野が痩せるという、愉快ではない現実だ。そして、二分法を超えた第三の道――機械を道具として使い、どこに判断を入れるかを握る道――こそが、本流になるだろうと論じた。
ここまで来ると、「判断する人間」というキーワードが、いよいよ前面に出てくる。だが、その判断は、いったい誰が下すのか。音楽制作の現場は、もともと分業で成り立っている。作曲、編曲、演奏、ミックス、マスタリング、そしてプロデューサー。AIは、この分業のどこを侵食し、人間はどこへシフトするのか。次回は、視点を制作現場の組織構造に移し、「作業者から、プロデューサーへ」という移行を考える。そしてそこで、私はひとつ、自分にとって耳の痛い問いを、自分自身に突きつけることになる。聴き手は、そもそも、作り手の判断など気にしているのか――という問いだ。
(第6回へ続く)



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