第4回 学習データは原罪か ―― 倫理・利害・論理を分けて考える

ヨミモノ

連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」第4回


いちばん耳の痛い問いに向き合う

前回、サンプリングを手がかりに、AIへの指示はむしろ能動的でクリエイティブだと論じた。だが、サンプリングを持ち出した時点で、避けて通れない反論が立ち上がる。サンプリングには、少なくとも引用元が特定でき、版権処理という手続きがある。ではAIはどうなのか。AIは、誰かの作品を大量に学習して出力している。その学習は、出典を溶かして見えなくしただけの、巧妙な盗みではないのか――。

これは、この連載でいちばん耳の痛い問いだ。そして、いま現場の作り手が最も生々しく怒っているのも、おそらくここである。だから、逃げずに向き合いたい。ただし、感情的な殴り合いにはしたくない。この問題を考えるとき、私は三つの層を意識的に分ける。倫理(論理)の層、利害の層、そして法廷闘争の層だ。この三つは、まったく性質の違う問いなのに、いつも一緒くたに語られる。分ければ、見通しがよくなる。

先に断っておく。この回でやりたいのは、AIの学習に「無罪」の判決を下すことではない。私は法律家ではないし、ここで法的な結論を出すつもりもない。やりたいのは、ごちゃ混ぜに語られがちなこの問題を、層に分けて見ることだ。何が論理の話で、何が利害の話で、何が制度や技術の実態の話なのか。それを分けないまま、「盗みだ」「いや創造だ」と叫び合っても、議論は一歩も進まない。


論理の層 ―― AIの学習は、人間の学習と何が違うのか

まず、いちばん冷静に考えられる、論理の層から。

AIを、外部知識の集積・処理・出力の装置として捉えてみる。すると、人間の創作と、構造が驚くほど似てくる。人間の作曲家もまた、生まれてから膨大な量の既存曲を聴き、そのスタイルを吸収し、自分のフィルターを通して出力している。バッハを千曲聴き込んで作った曲を、私たちは剽窃とは呼ばない。ジャズマンが先人のフレーズを血肉化し、それを即興で組み替えても、盗用とは言わない。学習し、内面化し、再構成する――これは、人間の創造の前提そのものだ。

だとすれば、AIの学習だけを「原罪」とするのは、行為の本質を問題にしているのではなく、その主体がAIであることを問題にしている、ということになる。やっていること自体は、人間が昔からやってきた学習と、構造として地続きなのだ。少なくとも論理のレベルでは、私はそう考えている。

ここで、前回のサンプリングと対比すると、さらに面白いことが見えてくる。サンプリングは、音そのものを波形ごと物理的に複製して使う。元の録音の一部を、そのまま切り取って貼る。一方、AIの通常の出力は、少なくとも表面上は、元音源の波形をそのまま貼り付けるものではない。スタイルや傾向を統計的に抽出し、再構成しているように見える。皮肉なことに、出力の見かけだけで言えば、「コピー」という言葉に近いのは、AIの出力よりも、むしろサンプリングのほうかもしれない。

ただし、ここで結論を急いではならない。出力が波形のコピーに見えないことと、学習の全過程で複製が一切ないことは、別の話だ。学習の過程では著作物の複製が発生しうるし、モデルが特定の表現を記憶して、ほぼそのまま再出力してしまう場合もある。さらに、特定の作家の作品群に過度に寄せた追加学習は、また別の問題を生む。これらは、ひとまとめにせず、切り分けて考える必要がある。だから私は、AIの学習をただちに「盗み」と呼ぶことにも、ただちに「人間の学習と同じだから問題ない」と片づけることにも、慎重でありたい。

そして、ここが法的にも重要なのだが、著作権法が保護するのは「創作的な表現」であって、思想や作風、アイデアそのものは保護しない。これは「表現・アイデア二分論」と呼ばれる、現行の著作権法の基本的な考え方だ。コード進行や様式そのものに著作権がない、というのも、この理屈の延長にある。既存曲のコード進行や和声構造を分析し、それを抽象化して別の楽曲に応用することは、創作の現場で昔から広く行われてきた。問題になるのは、特定の録音や創作的な表現をそのまま利用することなのか、それとも、構造や様式を学んで、別の作品へと変換することなのか、という切り分けである。

ただし、注意したい。「作風そのものは保護されない」という原則は、個別の事案で問われる類似性・依拠性・市場への影響といった問題を、消してくれるわけではない。様式は誰のものでもない、という一般論と、ある具体的な出力がある具体的な作品に似すぎている、という個別の判断は、別の層にある。AIの学習も、この原則の延長線上で「考えることはできる」が、それで個別の争いが自動的に解決するわけではない。


利害の層 ―― 正しさとは別に、反発は正当だ

しかし、論理的に「問題ない」と整理できることと、権利者が反発することは、まったく矛盾なく両立する。ここを混同してはいけない。

権利で飯を食っている人々にとって、AIが自分のスタイルを無償で吸収し、自分と競合する出力を量産することは、論理的な剽窃かどうかとは無関係に、純然たる経済的脅威だ。自分が長年かけて確立した作風を、AIがタダで真似て、安く大量に供給しはじめる。これに反発するのは、当然のことである。これは「正しさ」の問題ではなく、「生存」の問題なのだ。

だから私は、彼らの怒りに道徳的な非難を向けない。「お前たちは論理を理解していない」と切り捨てるのは、傲慢だし、的外れだ。論理の層では問題がなくても、利害の層では、彼らの不利益は現実に存在する。前回までの言葉を使えば、これは「正当な不安」のほうだ。創造性が消滅するという的外れな恐怖ではなく、収入が脅かされるという、その都度に固有の、現実の痛み。論理の層の結論を、利害の層の痛みを否定するために使ってはならない。この二つは、別の天秤で量るべきものだ。


法廷闘争の層 ―― 訴訟は「ポジション取り」である

三つめの層は、いま世界各地で起きている、AIをめぐる訴訟の話だ。

ここで私は、少し冷徹な見方を提示したい。これらの訴訟の多くは、純粋な「正義の探求」というより、新しい技術が生んだ価値を、誰がどう分配するかをめぐる「ポジション取り」だと捉えたほうが、実態に近い。判例がまだ存在しない領域で、先に訴えを起こし、有利な立ち位置を確保する。グレーゾーンに、自分に都合のいい線を引く権利を、奪い合っているのだ。

そして、それは決して卑しいことではない。金を生む可能性がある領域で、論点を立て、訴訟を通じてポジションを取りにいくのは、経済主体として合理的で、自然な行動だ。法とは、もともと道徳の体現ではない。利害が衝突したときに、社会がどう決着をつけるかの手続きである。だから、権利者がAI企業を訴えるのも、AI企業が反論するのも、どちらも「正しさ」をめぐる戦いというより、これから引かれる線を、自分の側に有利にしようとする交渉なのだ。この見方に立つと、訴訟の応酬を、善悪のドラマとしてではなく、価値分配の力学として、落ち着いて眺められるようになる。


活版印刷という、先例

ここまでの三層を、もっと大きな歴史の中に置いてみたい。すると、いま起きていることが、人類が一度通った道の、巨大な反復であることが見えてくる。鏡として手に取るのは、グーテンベルクの活版印刷だ。

活版印刷が現れる前、知識は写本――修道院での手書きの複製――によって伝えられていた。一冊を写すのに、膨大な時間と人手がかかる。だから本は希少で、知識は限られた場所に囲い込まれ、それを所有する教会や一部の階層が、権威を独占できた。複製のコストの高さが、権威の源泉を守っていたのだ。

そこへ、グーテンベルクが登場する。活版印刷は、複製の限界費用を劇的に下げた。聖書が大量に出回り、知識の独占が崩れ、宗教改革や科学革命の土台が築かれた。これは、知識の大衆化として、しばしば輝かしく語られる。だが、その裏側を見てほしい。写本を担っていた写字生たちは、実際に仕事を失った。海賊版が横行した。そして――ここが肝心なのだが――この混乱の中から、「著作権」という概念が、後から発明されたのである。

つまり、著作権とは、最初から存在した自然な権利ではない。複製のコストが暴落したときに、「誰が複製で利益を得るのか」を決めるために、社会が後付けで作り出した制度なのだ。技術が、それまで存在しなかった権利概念を、要請した。この順序が重要だ。

いま、AIの学習をめぐって起きている訴訟は、この活版印刷後の著作権成立過程と、構造的にまったく同じだ。複製・再生産のコストが暴落する。それまで成り立っていた価値の分配が崩れる。新しい線引きをめぐって、利害が衝突する。そして、その決着として、制度が後から作られていく。私が前の節で「訴訟はポジション取りだ」と言ったのは、まさにこの「制度がまだ存在しない領域で、有利な線引きを奪い合う」局面のことだった。活版印刷の後にも、同じことが起きていたのである。歴史は、技術が先行し、混乱が生じ、制度が後追いする、という順序を、何度も繰り返してきた。


いくつかの留保 ―― 規模と、時間

例によって、自分の論の弱いところを、正直に置いておく。今回は、特に重要な二つだ。

ひとつめは、規模と速度の問題である。「人間の学習とAIの学習は構造的に同じだ」という論理の層の主張には、必ずこういう反論が来る。人間は、一生かけても、深く吸収できるのはせいぜい数千曲だ。だがAIは、数百万曲を一瞬で処理する。質的には同じ「学習」でも、この量的な差は、質的な違いを生むのではないか、と。これは、まったく正当な指摘だ。一人の作曲家がある先人のスタイルを真似ても、市場への影響は限定的だ。だが、AIが特定アーティストのスタイルを無限に量産しはじめれば、そのアーティストの経済的な存在そのものを、消してしまいかねない。だから、私の「倫理的に問題ない」という主張は、個人対個人の規模では正しくても、産業対個人の規模になると、別の問題が立ち上がる。ここは、射程をはっきり限定しておかなければならない。倫理的に同じ行為でも、規模が、利害を非対称にするのだ。

ふたつめは、時間性の問題だ。私が依拠している「スタイルに著作権はない」という原則は、あくまで現行法の建前であって、いままさにAIによって、その建前自体が問い直されている最中だ。これまで「スタイルの模倣」が法的に放置されてきたのは、人間がやる限り影響が小さく、いちいち取り締まる実益がなかったからにすぎない。ところが、AIがそれを産業規模にした瞬間、放置されてきた前提が、経済的に無視できなくなった。そして、法が後から作られようとしている。つまり、私が論理の支柱にしている「スタイルは誰のものでもない」という原則そのものが、訴訟というポジション取りによって、これから書き換えられる可能性がある。私の論理は、現行の枠組みの中では正しい。だが、その枠組み自体が、いま利害によって動かされている。この入れ子構造を、忘れてはならない。


結び ―― 価値は、どこへ逃げるのか

今回は、AIの学習が剽窃かという問いを、論理・利害・法廷闘争の三層に分けて考えた。論理の層では、学習・内面化・再構成は人間の創造の前提と地続きで、しかもAIの出力は、サンプリングのように波形をそのまま貼り付けるものではない――ただし、学習の過程での複製や、特定表現の再出力という問題は別に残る。利害の層では、それでも権利者の反発は生存をかけた正当なものだ。法廷闘争の層では、訴訟は善悪のドラマではなくポジション取りであり、それは活版印刷が著作権を生んだ歴史の反復だ。ただし、規模の非対称と、原則そのものが書き換わりうる時間性という、二つの留保つきで。

さて、ここまでで何度も顔を出してきた「限界費用ゼロ」「無限の供給」という問題に、次回はいよいよ正面から取り組む。複製のコストが限りなくゼロに近づき、音楽が無限に湧き出す世界で、価値はどこへ逃げるのか。鏡として手に取るのは、産業革命と、それが滅ぼしかけた手仕事だ。そして、そこには「ラグジュアリー化」という、あまり愉快ではない未来も待っている。

(第5回へ続く)


参考文献

  • 文化庁 (2024). AIと著作権に関する考え方について. 文化審議会著作権分科会法制度小委員会.
  • U.S. Copyright Office. (2025). Copyright and artificial intelligence, Part 3: Generative AI training (Pre-publication version).

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