第3回 サンプリングからプロンプトへ ―― 能動性はむしろ上がる、という話

ヨミモノ

連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」第3回


視点を、現場に移す

前回までは、写真という歴史の鏡を使って、外側から大きな構造を眺めてきた。今回からしばらくは、視点を「実作業の現場」に下ろす。机上の芸術論ではなく、実際にレコードを掘り、Spliceを漁り、Sunoに指示を投げてきた人間として、いちばん書きたかった話に入る。

問いはこうだ。AIに「こういう音が欲しい」と指示する行為は、創造的なのか、それとも受け身なのか。世間では、AIを使うことを「自分では何も作っていない」と見なす空気がある。だが私は、むしろ逆ではないかと感じている。AIへの指示は、能動的でクリエイティブな行為であり、しかもその能動性は、私たちが既に「アート」として認めてきたある技法――サンプリング――の、正当な延長線上にある。今回は、そのことを丁寧に論じたい。


サンプリングは、かつて「盗作」だった

いまでこそサンプリングは、ヒップホップをはじめとする音楽文化の中核技法として尊重されている。だが、その出発点を思い出してほしい。登場した当初、サンプリングは「他人のレコードを切り貼りしただけ」「自分では一音も演奏していない」「要するに盗作だ」と、激しく蔑まれた。楽器も弾けない、曲も書けない連中のごまかし――そう見なされたのだ。

ところが、文化はやがてサンプリングを作家性として認めるようになった。何が評価されたのか。ふたつの行為である。ひとつは、膨大なレコードの山から「どのブレイクを掘り当てるか」という審美眼。いわゆるDigだ。誰も注目していなかった一曲の、わずか数小節に潜む宝を聴き分ける耳。もうひとつは、掘り当てた素材を「どう切り、どう繋ぎ、どう積むか」という判断。同じネタを使っても、切る位置、重ねる順番、加工の質感で、まったく別のものになる。

その象徴が、J Dillaだ。彼のMPCが刻むあのよれたグルーヴ、意図的にクオンタイズを外したリズムの「ため」は、いまや神格化されている。彼の創造性は、鍵盤や弦を弾くという身体動作だけにあったのではない。既にある音を、選び、切り、配置し、時間を歪ませるという判断にこそ、それは宿っていた。伝統的な意味での楽器演奏を前景化しなくても、そこには紛れもない作家性が宿ったのだ。サンプリングの正統性獲得とは、要するに「演奏という身体動作」だけが創造性の源ではない、と認められた出来事だった。選択と判断のほうに、創造性の重心が移ったのである。


掘る対象が、変わっただけ

ここで、本連載の核心のひとつに踏み込む。

サンプリングが「既にある音の中から選ぶ」行為だとすれば、AIへの指示は何だろうか。私はこう考える。それは「まだ存在しない音を、欲しい方向へ手繰り寄せる」行為だ。掘る対象が、レコードの山から、潜在空間という無限の山に変わっただけなのだ。

サンプリングのDigには、有限の枠がある。この世に存在するレコード、録音された音源、その範囲の中からしか掘れない。Spliceのようなサブスク型のサンプルライブラリも、規模こそ巨大だが、誰かが用意した素材の集合という点では有限だ。ところが、生成AIが相手にしているのは、学習された分布が許す、ほとんど無限の音の空間である。そこには、まだ誰も鳴らしたことのない音の組み合わせが、潜在的に無数に眠っている。

その無限の山から、自分の欲しい一点を掘り当てる。AIへの指示とは、そういう作業だ。プロンプトを書く。出てきた音を聴く。「これは違う、もっと湿った質感が欲しい」「テンポ感が間延びしている」とズレを判定する。指示を書き直す。また聴く。この反復は、受け身どころか、終わりのない能動的な探索である。レコード屋の棚を端から繰る指の動きと、プロンプトを練り直す思考は、私の実感では地続きだ。レコードを掘り、Spliceを掘り、そして潜在空間を掘る。掘る道具が変わっただけで、掘っているのは同じ私だ。

むしろ、と言いたい。掘る対象が無限になったぶん、要求される判断の解像度は上がっている。有限のレコード棚なら、出会いの偶然が選択を助けてくれる。だが無限の空間では、何を欲しているのかを自分の側がはっきり持っていなければ、無限の中で溺れるだけだ。だからAIへの指示は、サンプリングよりもさらに、作り手の内側にある「欲しい音の像」を問うてくる。


「頭の中で、なんとなく鳴っている」

この「欲しい音の像」こそ、私がこの連載でいちばん大事だと思っている概念だ。

AIに指示を出すとき、私の頭の中では、なんとなく欲しい結果が、すでに鳴っている。輪郭はぼんやりしている。だが、出てきた音がそれと合っているか、ずれているかは、聴いた瞬間にわかる。「これだ」あるいは「これじゃない」という判定は、外側にある基準ではなく、自分の中で鳴っている像との照らし合わせで下されている。

ここに、AIと人間の決定的な非対称がある。AIは、学習した分布の中央を出力するのが得意だ。だが、AI自身は何を欲してもいない。鳴ってほしい音の像を持っているのは、人間の側だけなのだ。だから、指示と再生成を何度も繰り返すあの作業は、外から見れば「AIに作らせている」ように見えても、内実は違う。あれは、自分の中の像と、AIの出力との距離を、少しずつ詰めていく作業なのである。距離を測る物差しは、人間の中にしかない。

そしてこの「これだ、と分かる感覚」は、サンプリングでDigするときに、無数のレコードの中から一枚を引き抜く、あの感覚と同じものだ。媒体が変わっても、判定を下す主体は人間に残っている。前回まで「機能と表現の分離」と呼んできたものを、現場の言葉で言い直せば、こうなる。機能(それらしい音を無限に生成すること)はAIに移せる。だが表現の核(何を欲し、何を選ぶか)は、人間の中の像から動かせない。


不正確さに、値段がつく ―― 三つの層に分ける

ここで話を、もう少し広げたい。AIが「完璧でそれらしい音」を無限に出せるようになった世界では、逆に、人間の不正確さ・不完全さにこそ価値が宿り、それが上がっていくのではないか。私はそう考えている。

この直観は、実は歴史的に裏づけがある。アナログレコードのパチパチというノイズ、真空管アンプの歪み、テープの飽和感。これらはもともと「劣った再現」であり、技術的には克服すべき欠陥だった。ところが、デジタル技術が完璧な複製を可能にした瞬間、それらの欠陥は、ぬくもりや味として、美的特徴へと反転した。完璧が標準になったからこそ、不完全が価値を持つ。希少性が、価値の反転を駆動したのだ。同じ理屈で、AIが完璧側を埋め尽くすほど、人間側の不完全さの価値は上がっていく。需給として、これは正しい。

だが、「不正確だから良い」という話を、そのまま垂れ流すと危うい。だから私は、人間の不正確さを、三つの層に腑分けしたい。この腑分けが、今回いちばん伝えたいことだ。

第一の層は、揺らぎ(fluctuation)だ。 テンポやピッチの微細なズレ、クオンタイズされていないリズムのよれ。これは、人間らしさの源泉のように語られがちだが、実は厄介な層だ。なぜなら、揺らぎそのものは、いずれ高い精度でモデル化され、再現されるからだ。「人間らしいよれ」を付与するプラグインは、すでに存在する。ヒューマナイズ機能は年々巧妙になっている。だから、もし人間の価値が「揺らぎ」だけにあるのなら、それは遠からずAIに模倣される。揺らぎ単体は、防壁にならない。ここは、正直に認めなければならない。

第二の層は、判断(intention)だ。 なぜ、そこでテンポをためるのか。なぜ、この進行をあえて崩すのか。同じ「ズレ」でも、文脈に応じた意味のあるズレと、ただのランダムなズレは、まったくの別物だ。たとえばグレン・グールドの極端なテンポ操作は、「不正確」なのではない。バッハをどう聴かせるかという、明確な解釈であり判断だ。AIは分布の中央を出力するので、こうした「必然性のある逸脱」を、自分では持てない。なぜ外すのか、という問いに答えられるのは、判断する主体だけだ。ここが、本丸である。

第三の層は、身体性・一回性(liveness)だ。 その場で、戻れない時間の中で、失敗のリスクを背負って出される音。ライブ演奏の価値は、ここに宿る。複製できないということ、そして、人間がそこに何かを賭けているという事実。AIには、失うものがない。だから、緊張がない。後戻りできない一回性の前で人間が見せる集中や震えを、AIは原理的に持ちえない。

この三層を分けると、最初の直観が、もっと精密な形になる。価値が上がるのは、「不正確性」そのものではない。完璧を出せる者が、あえて手放した不完全――その背後にある判断と身体性――の価値が上がるのだ。これは大事な区別だ。グールドは、正確に弾けたうえで、崩した。ローファイ・ヒップホップの作り手は、綺麗に録れる環境を持ったうえで、ノイズを選んでいる。土台となる技術なしのよれは、ただのよれにすぎない。下手さの美化と、判断としての不完全は、似て非なるものだ。


Sunoの現場で、起きていること

抽象論が続いたので、自分の実作業に引きつけて話す。

私はSunoで曲を作るとき、よく既存の楽曲からコード進行を抽出し、それを土台にしてプロンプトを組み立てる。たとえば、maj7やb9、add9といった拡張テンションを含む和声の響きを前に出したいとき、その意図をStyleフィールドにどう書き込むか、何度も試す。ここでやっているのは、まさに「判断」だ。どのテンションを選ぶか。どの響きを曲の中心に据えるか。それは、私の中で鳴っている像が決めている。AIは、私が指定した方向の「それらしい中央値」を返してくるだけで、なぜそのテンションなのかという必然性は、持っていない。

もうひとつ、私が日常的に格闘しているのが、テンポの崩れだ。Sunoは、放っておくとテンポが間延びしたり、意図しないハーフタイムの感触に化けたりする。それを防ぐために、プロンプトの書き方を工夫する。この「崩れを抑え込む」作業は、第一の層でいう揺らぎを、ただ排除しているわけではない。私が欲しい揺らぎと、欲しくない崩れを、聴き分けて選別しているのだ。これは第二の層、判断そのものである。どのよれは生かし、どの崩れは殺すか。その選別を下しているのは、AIではなく、私の耳と、私の中の像だ。

つまり、AIを使った制作の現場は、判断の放棄ではない。むしろ、判断だけが純粋に残った現場だ。演奏の技術も、録音の手間も、いったんAIに引き受けさせたうえで、それでもなお人間に残るもの――何を欲し、何を選び、どのよれを生かすか――が、剥き出しで問われる。サンプリングが「選択と判断」に創造性の重心を移したのと、まったく同じことが、AIの現場でも起きている。


いくつかの留保 ―― 自分の論を疑う

ここまで威勢よく書いてきたが、自分の主張に都合の悪い点も、正直に置いておきたい。連載を通じて守りたい姿勢だ。

ひとつめ。サンプリングには、AIにはない「摩擦」がある。レコードを掘る肉体的な労力、盤を探し当てる偶然、版権をクリアする交渉、限られた素材で工夫を絞り出す制約。制約があるからこそ創造性が生まれる、という反論は、必ず来る。AIは欲しいものが手軽に出すぎて、その手軽さがかえって判断の解像度を下げるのではないか、と。これは正当な問いだ。だが私はこう返したい。サンプリングのDigも、かつては「店で偶然出会う」摩擦が本質だった。それがSpliceのような検索可能なサブスク型ライブラリの普及で、すでにずいぶん手軽になっている。つまり、摩擦の有無は、その媒体がどれだけ成熟したかの問題であって、判断という本質とは別の話だ。手軽さは判断を不要にしない。むしろ、摩擦が減るほど、最後に残る判断の純度が問われる。

ふたつめ。「頭の中で鳴っている」像の解像度には、明らかに個人差がある。明確な像を持っている作り手にとって、AIはその像を手繰り寄せる強力な道具になる。だが、像を持たない使い手にとっては、AIが出してきたものを、後から「まあ、これでいいか」と追認するだけの作業になりかねない。同じツールが、能動的な探索にも、受動的な追認にもなる。だから私の主張は、無条件のものではない。内なる像を持つ者が指示するからこそ、AIへの指示はクリエイティブになる、という条件つきの主張だ。この条件を外して「AIを使えば誰でもクリエイティブ」と言ってしまうと、議論は崩れる。ここは、慎重に線を引いておきたい。


結び ―― そして「盗み」の問いへ

今回は、サンプリングの正統性獲得史を手がかりに、AIへの指示はむしろ能動的でクリエイティブな行為だと論じた。掘る対象がレコードから潜在空間へ変わっただけで、掘っているのは同じ人間だ。そして、人間の不正確さを揺らぎ・判断・身体性の三層に分け、価値が上がるのは「完璧を選べる者が手放した不完全」だと整理した。

だが、サンプリングを持ち出したことで、避けて通れない反論が顔を出す。サンプリングは、少なくとも引用元が特定でき、版権処理という手続きがある。ではAIはどうか。AIは、誰かの作品を大量に学習して出力している。その学習は、出典を溶かして見えなくした、巧妙な盗みではないのか――。次回は、この連載でいちばん耳の痛い問いに、逃げずに向き合う。AIの学習は、剽窃なのか。感情と、利害と、論理を、丁寧に分けながら考えていきたい。

(第4回へ続く)

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