連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」第2回

前回のおさらいと、今回の問い
前回、私はAIへの危機論には二つの声――正当な不安と、技術的に的外れな恐怖――が混ざっている、と書いた。そして、その的外れな恐怖を解きほぐすために、複数の歴史を鏡として手に取ると予告した。今回はその最初の鏡、写真である。
立てたい問いはシンプルだ。写真が登場したとき、絵画には何が起きたのか。何が失われ、何が生き残り、何が新しく生まれたのか。そしてその経緯は、いま音楽の現場で進行していることに、どこまで重なるのか。この回で手に入れたい道具は、ひとつ。「機能と表現の分離」という補助線である。
ひとつ、先に認めておきたいことがある。写真と絵画のたとえは、AIと創作を論じるときに、最もよく引かれる定番だ。あまりに引かれすぎて、いささか手垢がついている、と言ってもいい。だから私は、この比喩だけで何かを言い切るつもりはない。むしろ、誰もが知っているこの入り口を、できるだけ正確に通り抜けたうえで、その先へ進みたい。この連載が写真の話だけで終わらないことは、先に約束しておく。写真は、複数ある鏡の、最初の一枚にすぎないのだから。
肖像画家は、確かに職を失った
まず、楽観に逃げる前に、痛みのほうから確認しておきたい。前回「当事者を見下さない」と約束した手前、写真が引き起こした失業を、なかったことにはできない。
19世紀、写真が実用化される以前、ある人物の姿を正確に残す手段は、絵師に描かせることだけだった。富裕層は肖像画家を雇い、自分や家族の顔を canvas に刻ませた。これは安定した職能であり、多くの絵師がそれで食べていた。ところが、ダゲレオタイプをはじめとする写真技術が広まると、状況は一変する。写真は、肖像画よりも速く、安く、そして人間の手では到達しえない精度で、顔を記録した。記録のための肖像画という市場は、急速に縮んでいった。これは比喩でも誇張でもなく、職を失った絵師が現実に存在したという、冷たい事実である。
ここを直視したうえで、しかし、と続けたい。失われたのは「絵画」という営み全体だったのか。それとも、絵画が担っていた「正確な記録」という特定の機能だったのか。歴史が示すのは、後者である。
解放としての写真 ―― 印象派から抽象へ
写真が「正確な記録」を引き受けてくれたことで、絵画はある重荷から解放された。対象をいかに忠実に写すか、という長年の課題から、絵画は自由になったのだ。そして、その自由が向かった先こそ、近代絵画の爆発だった。
印象派は、対象の輪郭を正確になぞることをやめ、光が網膜に触れる一瞬のゆらめきそのものを描こうとした。モネが同じ積みわらを時間帯ごとに何枚も描いたのは、「積みわらとは何か」を正確に記録するためではなく、「光がどう移ろうか」を捉えるためだった。やがて表現主義は、目に見えるものの再現すら手放し、内面の感情を色と筆触で叩きつけるようになる。さらに抽象絵画は、具体的な対象そのものを解体し、色と形の関係だけで画面を構成しはじめた。

これらの方向は、いずれも「正確に写す」必要が消えたからこそ開かれた地平だった。皮肉なことに、写真という「絵画の敵」が現れたおかげで、絵画は絵画にしかできない領域へと深く分け入っていった。脅威は、絵画という営みそのものではなく、絵画が抱えていた「記録」という一機能だけを削り取り、結果として、それ以外の可能性を解き放った。これが「機能と表現の分離」という出来事の核心である。記録という機能は機械に明け渡され、表現という核は人間の側に残った――いや、むしろ純化された。
同じ構造を、音楽に重ねる
この補助線を、いまのAIと音楽に当ててみる。
生成AIが侵食しつつあるのは、作曲という行為のすべてではない。最も激しくぶつかっているのは、BGM、ストック音楽、ゲームのループ、企業VPやCMのジングルといった、機能的に消費される音楽だ。これらに共通するのは、「誰が作ったか」という作家性が、もともと希薄だということ。発注者が求めているのは、ある尺に収まり、ある雰囲気をまとい、聴き手の邪魔をしない音、という機能そのものである。署名は要らない。機能が満たされればよい。
この領域に、AIが提示する「学習データの中央値」は、驚くほどよく噛み合う。それらしく、無難で、用途を満たす音。肖像画における「正確な記録」が写真に置き換わったように、機能音楽における「それらしい中央値」は、AIに置き換わりつつある。つまり、いま危機にさらされているのは、絵画のときと同じく、作曲という営み全体ではなく、その中の「記録的・機能的な用途」なのだ。
だとすれば、絵画が辿った道は、音楽にとっての予言になりうる。記録という機能を手放した絵画が、表現の核へ純化していったように、機能音楽をAIに明け渡した先で、人間の音楽は「人間にしかできない判断」の領域へと純化していくのではないか。これが、前回立てた仮説――不確定性・嗜好・判断の領域には人間が要る――の、写真版の言い換えである。
写真は「写真独自の芸術」を生んだ
絵画の話だけで終わらせると、写真アナロジーは半分しか語れていない。もうひとつ、決定的に重要なことがある。写真は、絵画の代替物にとどまらなかった。最終的に、写真は「写真にしかできない芸術」を生み出したのだ。
報道写真は、決定的瞬間を切り取るという、絵画には不可能な時間の捉え方を発明した。ストレートフォトグラフィは、加工を排し、レンズが捉えた事物そのものの質感を作品にした。やがて写真は、現実を記録する道具であると同時に、現実を解釈し、構成し、提示する独自の表現言語として確立していく。絵画の模倣から出発した写真は、絵画にはない自前の美学を手に入れた。

この事実は、AIをめぐる議論に、重要な示唆を投げかける。私たちはつい、「AIは人間の音楽を代替するのか、しないのか」という二択で考えてしまう。だが写真の歴史は、第三の道を示している。AIもまた、人間の作曲を模倣する段階を超えて、いずれ「AIでしか到達できない音響表現」を生むかもしれない。生成モデルの潜在空間を意図的に彷徨い、人間の発想では決して辿りつけない音のつながりを引き出す――そうした営みは、もはや既存の作曲の代替ではなく、新しいメディウムの誕生である。脅威か、拡張か。その二択ではなく、「メディウムがひとつ増える」という見方を、私はこの連載で手放したくない。ただし、その新しいメディウムを誰が担うのかは、また別の問いだ。それは連載の後半、とりわけ最終回で考える。
「黙示録派」という、繰り返される声
ここまでの話は、実は写真に始まったことではない。新しい複製技術や表現技術が現れるたび、人類はほとんど同じ反応を繰り返してきた。
複数の論者が、興味深い系譜を指摘している。ダゲレオタイプが公表された1839年前後、新しい記録技術の登場に、多くの画家が動揺した。なかでも詩人・批評家のボードレールは、1859年のサロン評で、写真を「芸術にとって最も致命的な敵」と呼び、その芸術的正統性を厳しく疑った。……そのボードレール自身が、後に写真に撮られ、その肖像が、いまも彼の姿を伝えている。新しいメディアを「芸術ではない」と退けた当人が、まさにそのメディアによって後世に姿を残したのだ。
この研究は、思想史家ウンベルト・エーコの枠組みを引きながら、さらに踏み込む。ダゲレオタイプやラジオ、デュシャンの作品をめぐって語られた「黙示録的(apocalyptic)」な物語は、今日のAIをめぐる語りと驚くほど似通っている、と。つまり、新しい技術を前にして「これで芸術は終わる」と嘆く声は、技術が変わるたびに、ほとんど同じ台本で繰り返されてきた。そして、そのたびに、芸術は終わらなかった。むしろ、嘆かれた技術は、やがて文化に受容され、新しい表現の土壌になった。同じ研究は、芸術家はAIを新しい表現形式として創造的に使うこともできるし、ダゲレオタイプがそうであったように、新しい芸術メディウムとして取り込むこともできると述べている。
念のため、ここで誤解を避けておきたい。「過去にも黙示録的な声があり、毎回外れた。だから今回のAIへの不安も外れる」と言いたいのではない。歴史は、そんなに単純に繰り返さない。前回区別した二つの声のうち、「創造性が消滅する」という的外れな恐怖の部分は、確かにこの黙示録派の系譜に連なっている。だが「収入が脅かされる」という正当な不安は、台本の繰り返しではなく、その都度に固有の、現実の痛みだ。黙示録派の系譜という補助線は、前者を相対化するためにだけ使う。後者を切り捨てるためには使わない。この区別を、私はしつこく守りたい。
写真というアナロジーの限界
最後に、この鏡の歪みについても正直に書いておく。写真は便利な鏡だが、万能ではない。AIとの間には、ひとつ決定的な違いがある。
写真には、複製の物理的な上限があった。一枚のネガから印画紙へプリントするには、暗室での手作業と時間が必要で、無限に刷れるわけではなかった。だからこそ、写真にも「オリジナルプリント」という希少性が宿りえた。ところが、AIによる音楽生成には、その上限がない。限界費用はほとんどゼロで、ボタンを押すたびに、新しい曲がいくらでも湧き出してくる。
この違いは、見かけ以上に大きい。供給が無限になると、価値の源泉は「希少性」から引き剝がされ、別の場所へ移らざるをえない。機能音楽は、写真がたどった以上の速さで、値段のつかない方向へ押し流される可能性がある。この力学を正確に捉えるには、写真よりも、もうひとつ別の鏡――産業革命と大量生産――のほうがふさわしい。その話は第5回で、正面から扱う。ここでは、写真という鏡は「機能と表現の分離」を映すには優れているが、「無限の供給」を映すには曇っている、という但し書きを残しておきたい。
結び ―― 二枚目の鏡へ
今回手に入れたのは、「機能と表現の分離」という補助線だった。写真は絵画を殺さなかった。絵画が担っていた「正確な記録」という機能だけを削り取り、結果として表現の核を純化させ、さらに「写真独自の芸術」という新しいメディウムまで生んだ。そして、新技術を前に「芸術は終わる」と嘆く黙示録派の声は、技術が変わるたびに繰り返され、そのたびに外れてきた――ただし、正当な不安と的外れな恐怖は、あくまで分けて扱う。
次回は、視点を「作り手」から「実作業の現場」へ移す。サンプリングという、かつて「演奏すらしていない」と蔑まれた技法が、いかにして作家性として認められたのか。そして、AIへの指示という行為は、そのサンプリングの延長線上で、むしろ能動性を増しているのではないか。私自身がレコードを掘り、Spliceを漁り、Sunoに指示を投げてきた当事者として、いちばん書きたかった話に、いよいよ入っていく。
(第3回へ続く)



コメント