連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」第1回

はじめに ―― ある「噛み合わなさ」について
ここ最近、音楽家、とりわけ作曲家がAIに対してかなり強い危機感を表明しているのを、あちこちで見かけるようになった。仕事を奪われる、創造性が踏みにじられる、音楽が安く買い叩かれる。その声の切実さは、よくわかる。私自身、曲を作り、ミックスをし、音をめぐって何かを判断する側の人間として、制作にかかる手間や、そこに注ぎ込むこだわりを、身体で知っているつもりだ。
それでも、その危機論を眺めていると、どこか噛み合わない感覚が残る。不安そのものを否定したいのではない。ただ、語られている恐怖の輪郭が、実際に起きていることと少しずれているように感じる。そしてその「ずれ」の正体を考えていくと、私はどうしても、ある歴史上の出来事を思い出してしまう。写真が発明されたときの、絵画の動揺である。
この連載は、その直観を起点にしている。AIは音楽家にとって脅威なのか。もっと正確に言えば、ここで考えたいのは、AIが音楽を奪うかどうかではない。AIが音楽制作の「どの機能」を奪い、その結果として「どの価値」をむしろ浮かび上がらせるのか、という問いだ。答えを先に言ってしまえば、私は「全部が淘汰されるのではなく、一部が淘汰されて新しい形になるだけだ」と考えている。だがこの一文は、書いた本人がいちばんよく知っているとおり、ひどく無責任にも響きうる。だからこの連載では、その直観を、写真・活版印刷・産業革命・中世のパトロネージュ、そして日本のボカロや同人文化といった複数の鏡に映しながら、何度も検証していく。第1回はその出発点として、まず「危機感の正体」を腑分けすることから始めたい。
「写真のときに似ている」という感覚
写真が登場したとき、肖像画家は実際に職を失った。それまで、ある人物の顔を正確に後世へ残したければ、絵師に描かせるしかなかった。肖像画には「現実を正確に記録する」という、動かしがたい実用的価値があったからだ。ところが写真は、その記録という仕事を、速く、安く、圧倒的に正確にこなしてしまった。
だが、絵画そのものは死ななかった。むしろ「正確に記録する」という役割から解放されたことで、絵画は別の表現領域へと進んでいった。つまり、写真が脅かしたのは「絵画」という営み全体ではなく、絵画が担っていた「記録」という特定の機能だけだった。脅威の対象を、行為全体ではなく機能に絞って見る。この視点を、私はこの連載の最初の道具にしたい。
写真と絵画の関係を、もう少し丁寧に見ていくのは、次回の仕事にしたい。ここでは、写真というアナロジーは万能ではない、という但し書きだけ置いておく。……(限界費用ゼロは第5回で)写真は、複数の鏡のひとつにすぎない。

同じ構造を、いまのAIに重ねてみる。生成AIが本当に侵食しつつあるのは、作曲という行為のすべてではない。最も激しくぶつかっているのは、BGM、ストック音楽、ゲームのループ、企業VPのジングルといった、機能的に消費される音楽の領域だ。こうした音楽は、もともと「誰が作ったか」という作家性が薄く、求められているのは特定の用途を満たす機能そのものである。ある尺に、ある雰囲気の、邪魔をしない音。その種の発注に対して、AIが提示する「それらしい中央値」は、恐ろしく相性がいい。だからこの領域で危機感が噴き出すのは、まったく自然なことで、的外れでもない。
写真のときと違う変数も、もちろんある。写真はプリントに手間がかかり、複製の速度に物理的な上限があった。一方でAIによる生成は、限界費用がほとんどゼロで、無限に湧き出してくる。この違いがどれほど決定的かは、産業革命を扱う回(第5回)で正面から論じる。ここでは、写真というアナロジーは万能ではなく、複数の鏡のひとつにすぎない、という但し書きだけ置いておきたい。
危機論に潜む、二つの異なる声
では、なぜ私はこの危機論に「噛み合わなさ」を感じるのか。理由を突き詰めていくと、ひとつの危機論の中に、本来は性質の違う二つの声が、同じ口調で混ざって語られているからだ、という結論に行き着く。
ひとつは、正当な不安である。AIが機能音楽の市場を侵食すれば、そこで食べていた人々の収入は実際に減る。新しい技術への移行コストを、誰がどう負担するのか。マクロには「産業が新しい形に移行する」と要約できる現象でも、ミクロでは、ひとりひとりのキャリアが現実に壊れる。この痛みは本物で、軽んじてはならない。「新しい形になるだけ」という私の楽観は、まさにこの当事者性を欠いた言葉に聞こえうるし、そう聞こえることに私は自覚的でありたい。誰がそのコストを払うのかという問いは、まったく正当だ。
もうひとつは、技術的に的外れな恐怖である。AIが人間の創造性そのものを丸ごと代替し、作曲という営みが根こそぎ消える、という種類の語り。これは、起きていることの実態とずれている。AIは学習した分布の「中央」を出力するのが得意で、なぜこの和声でこのリズムなのかという選択の必然性や、その分布の外へ意図的に踏み出す逸脱を、自分では持てない。Sunoを日常的に触っている人なら、体感としてわかるはずだ。出てくる音は驚くほど「それらしい」。だが、そこには何を欲しているのかという判断の主体がいない。

問題は、この二つが、しばしば同じ声で、同じ熱量で語られることだ。収入が脅かされるという正当な不安が、創造性が消滅するという的外れな恐怖の語彙を借りて表現される。あるいは逆に、技術への純粋な恐れが、経済的苦境の言葉をまとう。両者が溶け合ったまま語られるので、聞いているこちらは、どこに同意しどこに留保すべきかを見失う。私が感じていた「噛み合わなさ」の正体は、おそらくこれだ。批判すべきは、不安を抱く当事者ではない。腑分けされないまま混ざってしまった、二つの声の混線のほうである。
だからこの連載は、危機論を頭ごなしに否定する場所にはしない。むしろ正当な不安は正当なものとして受け止めたうえで、的外れな恐怖の部分だけを、歴史という鏡に照らして解きほぐしていく。当事者を見下さないこと。これを、連載全体を貫く最初の約束にしたい。
この連載が立てる、ひとつの仮説
ここまでの腑分けを踏まえて、連載全体を貫く仮説を、いまの段階で粗く示しておく。
それは、不確定性・非論理性・嗜好の領域には、必ず人間のインプットと判断が要る、という仮説だ。なぜそのズレを心地よいと感じるのか。なぜその進行から外れたほうがいいと判断するのか。何を「良い」とするのか。こうした問いに答える主体は、いまのところ人間にしかいない。AIは選択肢を無限に供給できるが、その中から何を選び、何を世に出すかという判断は、人間の側に残る。だとすれば、淘汰されるのは作曲という行為の全体ではなく、判断を必要としない部分――機能的に消費される、中央値で足りる音楽――に限られる。残りは、淘汰されるのではなく、形を変える。
もちろん、この仮説には、これから何度もぶつけていくべき反論がある。AIの学習はそもそも剽窃ではないのか(第4回)。無限に湧く供給の前で、価値はどこへ逃げるのか(第5回)。聴き手は、そもそも作り手の判断など気にしているのか(第6回)。そして、日本のボカロや同人文化は、この問いの多くにとっくに答えを出していたのではないか(第7回)。最後には、「判断する人間が中心に残る」という仮説そのものが、西洋的な人間中心の構えを引きずっているだけではないか、という自己批判にまで踏み込む(第8回)。
ひとつの直観を、複数の鏡に映して検証していく。写真、活版印刷、産業革命、中世のパトロネージュ、そして日本の音楽文化。これらの鏡が、もし同じ一点を指すのなら、その一点はかなり頑健だということになる。逆に、鏡ごとに違う像が映るのなら、私の直観のどこかが間違っているということだ。どちらに転んでも、考える価値はある。

結び ―― 出発点として
この第1回では、結論めいたことはほとんど言っていない。言ったのは、ただひとつ。AIへの危機論には、正当な不安と的外れな恐怖が混ざっていて、その混線が「噛み合わなさ」を生んでいる、ということだけだ。
次回からは、いよいよ最初の鏡を手に取る。写真である。写真は絵画を殺さなかった。では、何を殺し、何を生んだのか。そして、その歴史は、いま音楽の現場で起きていることに、どこまで重なるのか。「機能と表現の分離」という補助線を携えて、次回その話に入っていきたい。
(第2回へ続く)



コメント