第7回 日本は、先に通過していた ―― 派生の肯定と、複数性の受容

ヨミモノ

連載「AIと音楽制作 ―― 写真・活版印刷・そして判断主体をめぐって」第7回


西洋の鏡を、いったん置く

ここまで、私はずっと西洋から生まれた鏡を使ってきた。写真、活版印刷、産業革命。これらは強力な鏡だったが、ひとつ、暗黙の前提を共有していた。それは、創作とは「オリジナルな個人が、内面から生み出す、唯一無二のもの」だ、という観念である。

実は、AIへの危機感の多くも、この前提に深く依存している。ロマン主義が生んだ「天才」の神話、自己表現としての芸術という観念――これらを前提にするからこそ、AIが「個人の唯一性」を侵すことが、根源的な恐怖になる。だが、ここで立ち止まりたい。この前提は、本当に普遍的なものなのか。今回、私が手に取るのは、西洋の鏡ではない。日本のボカロ、東方、同人といった文化圏だ。そして、立てたい主張は、ひとつ。これらの文化は、AIが西洋に突きつけている問いの多くに、AIが登場するはるか前から、すでに答えを出していたのではないか――ということだ。

念のため、最初に強く釘を刺しておく。これは「日本人は特別だ」という話ではない。これは「日本人は特別だ」という話ではない。その種の語りが、いかに危ういかは、この回の最後に、たっぷり時間をかけて自己点検する。ここで論じたいのは、日本人一般の感性ではない。ボカロ、東方、同人といった、日本語圏の特定のネット/同人文化圏が、創作と受容のあり方として、AI時代に再浮上している問いの一部を、先取りしていたのではないか――という、限定的な仮説だ。だから以下、「日本」と大きく書く代わりに、できるだけ「この文化圏」と呼ぶ。この限定を、最後まで外さない。


作り手の側 ―― 派生と分業の肯定

まず、作り手の側から見ていく。三つの文化が、それぞれ別の角度から、西洋的な前提を相対化している。

ボカロ ―― 機械が歌うことの、社会実装

2007年の初音ミクの登場は、いま振り返れば、ひとつの事件だった。それは、「人間が歌わない音楽」を、大衆の規模で成立させた、最初の出来事だったからだ。

ここで、この連載の主張が、見事に裏づけられる。ボカロ文化は、歌唱という、音楽の中でもっとも「人間的」とされる部分を、機械に明け渡した。そのうえで、作曲・調声・編曲という「判断」の部分に、作家性を見出したのだ。これは、第3回から私が繰り返してきた「判断主体は人間に残る」という主張の、十数年前からの実例にほかならない。とりわけ象徴的なのが、「調声」――どう歌わせるか、という細かな判断――に、職人技が宿るとされ、「神調声」という評価軸まで育ったことだ。声そのものは機械が出す。だが、その声をどう歌わせるかの判断は、人間に残った。これは、前回論じたミックス・マスタリングの構図――レファレンスへ連れて行くのはAI、最終判断は人間――と、まったく同じ形をしている。

さらに、ボカロには、実演者として前景化する「中の人」がいない。もちろん、音声ライブラリには声を提供した人がいる。だが、聴き手が作品を受け取るとき、歌っている主体として現れるのは、その提供者本人ではなく、キャラクターと、音声ライブラリと、作り手の調声と、受け手の想像力の複合体だ。だからこそ、特定の人格に縛られることなく、無数の作り手が、同じ声を使うことができた。これは、第3回のサンプリング論――共有された素材を、各自のフィルターで作り変える――の構造そのものだ。初音ミクという共有された声を、各作家が、自分の判断で、まったく別の作品に仕立てていった。

東方・同人 ―― 二次創作という、正統な創作

東方Projectは、原作という共有された土台の上に、無数の二次創作、アレンジ、編曲が積み重なって、巨大な文化圏を築いた。ここで決定的に重要なのは、二次創作が、「劣化コピー」でも「盗用」でもなく、正統な創作として尊重される、という価値観が、確立していることだ。

原曲をアレンジすることは、オリジナリティの欠如ではない。原作への敬意と、自分の解釈との、両立なのだ。これは、西洋的な「オリジナルこそ至高」という前提への、文化からの反証になっている。そして、思い出してほしい。第4回で、私は「学習・内面化・再構成は、人間の創造の前提だ」と論じた。その同じ論理が、日本では、二次創作というかたちで、AIが登場するはるか前から、文化的に承認されていたのである。既存からの派生を恥じない文化は、AIが既存を学習して出力することへの忌避感も、構造的に小さいかもしれない――という仮説が、ここから立つ。

ただし、ここでも急いではいけない。二次創作文化があるからといって、権利の問題が消えるわけではない。東方や同人の文化が成り立ってきたのは、原作者ごとの明示的・暗黙的なガイドライン、参加者のあいだの慣習、即売会の運営ルールといったものが、長い時間をかけて積み重なってきたからでもある。派生を肯定する文化と、権利の問題を無視することは、まったく別だ。むしろこの文化圏は、派生を許す代わりに、その許し方をめぐる細やかな約束事を発達させてきた、と言ったほうが正確だろう。

同人・コミケ ―― 分業と経済の、独自エコシステム

そして、同人音楽は、商業とは別の経済圏を作り上げた。これは、第5回で論じた「分散した新しいパトロン」の、この文化圏における、最も成熟した先行実装だ。コミケや同人即売会は、少数の熱心なファンが、作り手を直接支える、分散したパトロン構造そのものである。大手レーベルを介さず、作り手と買い手が、直接つながる。これは、中世のパトロンとも、近代の市場とも違う、第三のかたちだった。


受け手の側 ―― 複数性の、受容

ここまでは「作り手」の話だった。だが、この回でいちばん面白いのは、実は「受け手」の側だと思う。前回、私は「聴き手は、作り手の判断を気にしているのか」という問いを立てた。その問いが、ここで、この文化圏の話と一本につながる。

介在への、慣れ

アイドルというものを考えてみてほしい。アイドルは、本人だけで成立しているわけではない。プロデューサー、運営、振付師、作家陣、衣装、そしてファンの応援――目に見えない多数の手が介在して、ひとつの偶像が形作られ、時間とともに変わっていく。そして、受け手は、それを知ったうえで、その偶像を愛している。

ここに、西洋的な「単一の作者が、内面から生み出す、唯一無二の作品」という前提とは、まったく異なる受容の構えがある。偶像とは、誰か一人のものではなく、多数の介在の結果として立ち上がる、共同的な構築物だ――そういう了解が、受け手の側に、最初からあるのだ。だとすれば、AIという新たな介在者が、そこに一つ加わることへの抵抗も、構造的に小さい。多数の手で作られることを、すでに受け入れている受け手にとって、その手の一本がAIであることは、質の違いではなく、程度の違いに見えうる。

複数解釈の、併存 ―― ある種の「割り切り力」

もうひとつ、さらに本質的なものがある。それは、多数の解釈を、同時に受け入れる能力だ。

同じキャラクター、同じ偶像に対して、公式の解釈があり、無数の二次創作の解釈があり、ファン各自の脳内の解釈がある。そして、それらが、互いに矛盾したまま、同時に存在することを、受け手は平然と許容する。どれが本物かを、決めようとしない。この「複数の真実が併存してよい」という構えは、西洋的な「オリジナルこそ唯一の正解」という一元論と、鮮やかに対照的だ。

そして――ここが、本当に面白いところなのだが――AIが生成するのは、まさに「無数の、どれも決定版ではない解釈」なのだ。AIに同じ指示をしても、毎回違うものが出てくる。その複数性、決定版のなさは、西洋的な作品観からは「だから本物ではない」という欠点になる。だが、多数の解釈の併存に慣れた受容の構えからは、それは欠点ではなく、見慣れた光景に見える。

ここで、前回の宿題が解ける。前回、私は「商業音楽では、聴き手は何で作ったかを気にしない」と書いた。それは、経済活動としての音楽、という軸の話だった。だが、いま見たように、その同じ受け手は、別の軸では、きわめて高度な受容能力を発揮している。つまり、受け手は、判断を放棄しているのではない。何で作ったか、という制作プロセスには無関心でも、複数の解釈を同時に抱える、という別種の能動性を、ちゃんと持っているのだ。受け手を「リテラシーが低い」とも、「どうでもいいと思っているだけ」とも切り捨てず、別の方向に成熟した受容主体として、捉え直すことができる。


ここで、強くブレーキを踏む ―― 二つの留保

さて、ここまで威勢よく「日本は先に通過していた」と書いてきた。だが、この主張は、いちばん心地よいがゆえに、いちばん危ない。だから、ここで強くブレーキを踏み、二つの留保を、しっかりと置く。

ひとつめ。これを、文化的な優越論にしてはならない。 「日本は先行していた、だから日本人はAIに抵抗がない」という、雑な一般化に滑らせては、絶対にいけない。事実として、日本にも、商業音楽で権利を守る側の反発は、当然ある。前回論じた「権利で飯を食う側が反発するのは合理的だ」という構造は、日本でも、まったく同じように働く。だから、先行していたのは「日本」という国ではない。二次創作と機械歌唱を肯定した、特定の文化圏だ。J-POPの権利ビジネスも、レコード会社の利害も、その文化圏の外には厳然と存在する。射程を、ここまで絞る。日本の特権を語っているのではなく、西洋近代の前提を相対化する補助線として、この文化圏を使っているにすぎない。

ふたつめ。ボカロや東方が肯定した「派生」と、AIの「学習」は、似ているが、完全には同じではない。 ここは、正直に差異を置かなければならない。二次創作は、何を原作とするかが、明示されている。東方のアレンジは、原曲が何かを、誰もが知っている。そして、そこには原作への敬意という、関係性がある。一方、AIの学習は、何を学習したかが、溶けて見えない。敬意という関係性も、持たない。だから、「日本の二次創作文化は、AIの学習を構造的に受け入れやすい」という仮説は、出典の明示と、敬意という条件が外れている点で、そのままは適用できないのだ。

だが、この差異を正直に置くことは、議論を弱めるのではなく、むしろ次へつなげてくれる。日本の文化圏は、確かに派生と複数性を先取りしていた。ただし、その派生には「出典」と「敬意」があり、AIの学習には、それがない。この差こそが、次に問うべきことなのだ。出典が溶け、敬意が欠けた派生を、私たちはどう受け止めるのか。それは、人間と機械の関係そのものを、問い直すことに行き着く。


結び ―― 最後の鏡、そして問い直しへ

今回は、西洋の鏡をいったん置き、日本のボカロ・東方・同人という文化圏を覗いた。作り手の側では、機械歌唱と調声の判断、派生の肯定、分散したパトロン。受け手の側では、多数の介在への慣れと、複数解釈の併存。これらは、西洋的な「単一の作者による、唯一の決定版」という前提を、作る側からも、受け取る側からも、AI以前から相対化していた。ただし、文化的優越論には決して滑らせないこと、そして派生と学習には「出典と敬意」という差があること――この二つの留保を、強く握りながら。

そして、次回は、いよいよ最終回だ。中世のパトロネージュへの「回帰」という、経済の円環を確認したうえで、それが完全な円ではなく「螺旋」であることを論じる。さらに、この回の最後に顔を出した「人間と機械の関係そのもの」という問いを、アニミズムという文化の古層にまで降りて、突き詰める。そして最後には――この連載がずっと支柱にしてきた「判断する人間が中心に残る」という結論そのものが、実は西洋的な人間中心の構えを、引きずっていただけではないか、という、自分自身への最大の問い直しに、踏み込むことになる。

(最終回・第8回へ続く)

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